お二階のひと 2:消えゆく自我と残る温かさ
柴山智之氏の『お二階のひと 2』を読ませていただきました。前作『お二階のひと』で描かれた、認知症を患う妻・静江さんの視点とは対照的に、本作では夫である「私」の視点を通して、静江さんの病状の進行と、それに伴う家族の葛藤が克明に描かれています。単なる認知症患者の描写にとどまらず、自己の喪失という普遍的なテーマ、そして夫婦という存在の深淵を鮮やかに浮かび上がらせている、非常に印象的な作品でした。
一気に加速する病状の進行と、それに伴う心の変化
前作では静かに、しかし確実に進行する静江さんの認知症が描かれていましたが、本作ではその進行速度が明らかに加速している様子がわかります。記憶の喪失、人格の変化、そして周囲への攻撃性といった症状は、読む者の心を深くえぐるような描写で表現されています。特に、かつて愛した妻の姿が徐々に失われていく様は、言葉にならない悲しみと絶望を呼び起こします。「私」は、最愛の妻を失っていくという現実と向き合いながら、同時に自身の心の変化にも苦悩しているのです。
初期の段階では、静江さんの症状を理解しようと努め、治療法を探し、介護に励む「私」の姿が描かれています。しかし、病状の進行に伴い、彼の心の平静も徐々に失われていきます。静江さんの言動に振り回され、苛立ちや怒りを抑えきれなくなる場面も少なくありません。その葛藤は、読者にも深い共感を呼び、認知症介護の現実の厳しさを突きつけます。
興味深いのは、「私」が自身の変化に気付いていく過程です。かつては静江さんの症状に苦悩しながらも、何とか彼女を支えようとしていた「私」ですが、物語が進むにつれて、その感情自体が薄れていく様子が描かれています。悲しみや怒りといった感情が麻痺していくかのように、静江さんの言動に冷静に対応する場面が増えていきます。これは決して「私」が冷酷になったということではなく、むしろ、心の防衛機制が働いている結果なのではないかと感じました。過剰な感情に振り回されるよりも、現状を受け入れることで、何とか日々の生活を維持しようとしているのではないでしょうか。
夫婦のあり方、そして教育観の探求
本作では、認知症という病気を通して、夫婦のあり方が深く問われています。長年連れ添ってきた夫婦の間には、言葉にはできない深い絆が存在します。しかし、静江さんの病状の進行は、その絆を少しずつ、しかし確実に蝕んでいきます。それでも、「私」は静江さんを最後まで支え続けようとする姿勢は、読者の心に強く訴えかけてきます。それは、単なる愛情を超えた、深い共存関係の証左と言えるでしょう。
さらに、本作では「私」の教育観についても考えさせられます。二人の娘たちの存在を通して、親として、そして教育者としての「私」の葛藤が描かれています。認知症の介護に追われ、娘たちへの関心が薄れていく「私」の姿は、現代社会における親子のあり方についても問いかけているように感じました。
「正常」と「異常」の境界線:自我の喪失という普遍的なテーマ
本作の大きな魅力の一つは、「正常」と「異常」の境界線が曖昧に描かれている点です。静江さんの認知症は、「異常」な状態として捉えられますが、一方で、「私」の心の変化もまた、ある意味で「異常」と言えるかもしれません。感情の麻痺、現実逃避、そして自己の喪失といった症状は、認知症の患者だけでなく、様々な困難に直面する人々に共通する側面ではないでしょうか。
この点は、本作を単なる認知症介護の物語として捉えるのではなく、より普遍的なテーマとして読み解くことを可能にしています。自己の喪失、そしてそれに伴う心の変化は、誰にでも起こりうる可能性がある出来事なのです。その意味で、本作は認知症という病気を通して、人間の脆さと強さを同時に描き出していると言えるでしょう。
まとめ:読後感と余韻
『お二階のひと 2』を読み終えた後には、深い余韻が残りました。それは単なる悲しみや絶望ではなく、静江さん、そして「私」の人生に対する深い理解と共感です。本作は決して楽観的な物語ではありませんが、それでも、そこには人間の温かさ、そして夫婦の絆の強さが確かに存在しています。認知症という重いテーマを扱いながらも、読者の心に深く訴えかける力強い作品でした。
「私」の静江さんへの愛情、そして静江さん自身の存在感、それらは言葉にならないほど深く、読者の心を揺さぶります。この作品は、認知症介護の現実をありのままに描きながらも、同時に人間の尊厳、そして生きる意味を問いかける、まさに柴山文学の総決算にふさわしい力作です。多くの人に読んでいただき、考え、そして感じてほしいと心から思います。